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小学生のころは、先生や皆から可愛がられ、お友達もたくさんできました。
理科の授業で居眠りをして先生につねられたことを覚えています。
自分ではふつうだったと思いますが、
周りからはやんちゃだと言われました。
廊下に立たされて、イラついてガラスを割ったこともあります。
小学校の先生とは、今でも仲良くしています。
中学生のころは、自分で合気道を習いに通ったり、部活は卓球をやっていました。
合気道をしていたおかげで、転倒しても受け身をして血だらけにならないですんでいます。
卓球では、負けてばかりでしたが、1回だけ勝ったこともあります。
修学旅行では、京都・奈良に行きました。
中学校でも、皆に可愛がられました。
高校生のころは、同じFDAに通っている利用者さんと知り合いました。
特別な高校に行くために、3回北海道に行きました。
文化祭が派手だったのを覚えています。
専門学生のころは、鶯谷に通っていてコンピューター学科に通っていました。
コンピューターが無理なので、特別なところに回されました。
特別なところでは、劇で釣りバカ日誌を行い、
魚の役をしたのが思い出に残っています。
また、皆で鹿児島に温泉に入りに行ったのも思い出です。
こんな学生生活を送っていました。
私が考える大きなイベント事は、一体なんだろう?
としばらく考え今の自分に対しての弱い所しか見えてこない。
最大のイベントが、頭に浮かんでこない。
思春期に「自分だけは、特別な存在なのだ。」と勘違いしていたり、
周りから白い眼で見られる様な事やいじめに近いからかわれ方をされた事もあった。
親の反対を押し切って、整備士になりたいと工業高校に進んだものも置かれた環境変化に対応したつもりが、大学へ進学し、気が付けば、自分の望む夢から大分離れた人生を歩いて来てしまった様な気がする。
エンジニアに成りたかったはずなのに時代のせいにして営業職を我慢してやった。早生まれなので22歳になりたてで社会に出た。最初の勤務地は、広島だった。1年半後に岡山に移り、半年で島根・鳥取の山陰地方を1人で担当した。その2年後、今度は福岡に移動した。
目まぐるしく20代を過ごした結果、次の年の1月私は、人生最大の“病気”を患い、以降自分の居場所をどんどん狭くし陽のあたらぬ人生を送って今に至っている。
神経型ベーチェット病・・・・・興味がある方は、GOOGLEやYHOOOで調べてみて頂いて結構。私の場合は、脳内の脳幹が侵され、針湿疹や毛嚢炎が、身体の至る所に出てきて、言語障害・構語障害・眩暈・抑鬱症状なども併発してくる為、隔週の通院は、継続して行かなければならない。右目にも症状が出た事があり、放っておくと失明もする。
日々生きる事に疑問を持つ様になり、存在意義や価値のない自分を心から悔やむ。
でも、今、私は幸いな事に家族が居てくれる。特に本当に大切にしたくて大事にしたい家族:娘がいてくれる。彼女は、もう反抗期を迎えている。もうすぐ思春期にも入るだろう。
せめて、この娘の為に出来る事は、やり尽くしたいという思いがある。役立たずのダメな親だが、彼女が成人し社会に出て、結婚し親になった時、その時の子供に「おじいちゃんの話」として私の存在を後世に話す時まで諦めずに生きた自分の生涯を教養も含めて話して欲しいと思う。
私の人生で起きた最大のイベントは、「娘」が居てくれる事。
愛情とは、ためらいなく自己犠牲できるか否か?だと気づかせてくれた。彼女を出来る限り悲しませぬよう育て、行ける所まで生きたいと思う。
2月27日は川崎のとどろきアリーナへデフバレーボール観戦に行きました。
デフバレーボールとは聴覚に障害を持つ人たちのバレーボールです。
参加メンバーはインターンも一緒でした。
川崎駅から市民ミュージアム行きのバスで行きました。
引率者はスタッフでした。
私の得意なのが手話で車いすたたみを手伝ってくれた聴覚障害者の人に
手話で「ありがとう」とお礼を言ったら、その人も「どういたしまして」って返
してくれました。
私が日頃勉強をしている手話が通じたのがとてもうれしかったです。
手話の勉強は手話の本や学習ビデオなどを見ながら勉強をしています。
私は朝礼と終礼のときに手話講師としてみんなで私が表現した手話を読み取ってもらって単語を答えてもらっています。
これからも簡単な手話単語をメインに勉強をしていきたいと思います。
ちなみに本日はみんなでディスカッションを行いました。
多少発言が出来て良かったです。
水、金は実習がんばります!!